フォルテピアノについて

July 29, 2008 11:17 PM

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 皆様が中学校の音楽の授業で見かけた黒いピアノ、実はあのピアノの原型ができたのはさかのぼること1850年代のヨーロッパでした。ではモーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)やベートーヴェン Ludwig van Beethoven(1770-1827)が、それよりも前の時期に活躍した作曲家なのは、ご存知だと思います。そうすると、彼らが演奏していたピアノは一体どのようなピアノだったのでしょうか?

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ピアノの起源を簡単にご説明しますと、1709年にイタリア・フィレンツェで、メディチ家の楽器職人として働いていたクリストフォリBartolomeo Cristofori (1655-1731)という人物がピアノを発明したといわれていますが、それを受け継いだのはイタリアではなく、ドイツのジルバーマンGottfried Silbermann (1683-1753)でした。改良を重ねて1747年ポツダムのサンスーシー宮殿でバッハに試奏を依頼し、彼の賞賛を得ました。ジルバーマン以降、ピアノ製作(ピアノのメカニック)は大きく二つの流派に分かれます。それは「イギリス式アクション」と「ウイーン式アクション」という名称で呼ばれています。現在生産されているピアノは、ほとんどが「イギリス式アクション」を用いています。スタインウェイ(1853年創業)やベヒシュタイン(1853年創業)がその代表格と言えるでしょう。
 

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 さて、「ウイーン式」のピアノの発展はどうだったのでしょうか?J.A.シュタインJohann Andreas Stein (1728-92) という楽器作りの名手をまずご紹介します。彼はG.ジルバーマンの甥にあたるハインリッヒ・ジルバーマンHeinrich Silbermann (1722-99) の工房で学び、その後はモーツァルト一家が彼から旅行用鍵盤楽器を購入したほど有名でした。その後はアントン・ヴァルターAnton Walter (1752-1826) やヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーJohann Andreas Streicher (1761-1833) やコンラート・グラーフConrad Graf (1782-1851)、ミヒャエル・ローゼンベルガー Michael Rosenberger (1766-1832) 、ペーター・ローゼンベルガー Peter Rosenbergerといったメーカーが頭角を現します。

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1840年代になると、ピアノの鉄骨の前身となる支えが入り始め、また徐々に製作を工業化し始めたイギリス、フランス式のピアノが台頭し始めます。そしてこれは、楽器の大量生産や音量への要求、それにともなうハンマーやアクションの大型化など、ウイーンのピアノ作りが生き残りをかけた苦悩の時代に突入したことを意味しています。

では「イギリス式」と「ウイーン式」はどのような違いを持つのでしょうか?音を出す(ハンマーが弦を打つ)仕組みは、「ウイーン式」(跳ね上げ式)は鍵盤と連結したハンマーを、鍵盤を押し下げることによって跳ね上げて弦を打ちます。一方「イギリス式」(突き上げ式)は鍵盤と連結していないハンマーを押し下げることによって、下から突き上げて弦を打ちます。これによる音の色彩は全く違うもので、「ウイーン式」はハンマーが小さく、鍵盤の深さも浅く、軽快で明るい音色を長所とします。「イギリス式」はタッチが重く、鍵盤は重く、重厚な和音を奏でるのに適しています。クレメンティ Muzio Clementi(1752-1832) や「夜想曲―ノクターン」の創始者として有名なフィールド John Field (1782-1837) 、練習曲で有名なクラーマ― Johann Baptist Cramer (1771-1858) が「イギリス式」を絶賛しました。かたやハイドン Joseph Haydn (1732-1809) 、モーツァルト、チェルニー Carl Czerny (1791-1857)、シューベルト Franz Schubert (1797-1828)、メンデルスゾーン Felix Mendelssohn (1809-47)、ロベルト・シューマン Robert Schumann (1810-56)、クララ・シューマン Clara Schumann (1819-96) らは「ウイーン式」のピアノを好みました。

ベートーヴェンの生きた時代は、まさにフォルテピアノの劇的な転換期でもありました。彼の革命的精神と耳を患った彼の内面から湧き出る途方もないエネルギーは、その当時のピアノでは表現しきれない劇的な音楽を生み出し、それによって楽器製作者を刺激することにもなったのです。
たとえば彼のピアノソナタ作品13「悲愴」は「ウイーン式」のヴァルターのピアノ(5オクターヴ)で、そして1801年「月光ソナタ」作品27‐2や1802年「テンペスト」作品31‐2はやはり「ウイーン式」のヤケシュJakeschのピアノ (5オクターヴ) で作曲されたようです。1803年にはセバスティアン・エラール(1752-1831)(フランスで「イギリス式」ピアノを開発中、フランス革命(1789年)が勃発したためイギリスに亡命。1796年にパリに帰還)から、「イギリス式」のピアノ(5オクターヴ半) を贈られます。1809年までは気に入って用いたようで、代表作は1803/04年に作曲された「ワルトシュタイン」作品53や1804/05年「熱情」作品57、1805/06年ピアノ・コンチェルト第4番作品58などがあげられます。またペダルもヴァルターやヤケシュのピアノでは「膝」でダンパーを動かしていたのに対し、足で操作するペダルを備えていました。

しかしベートーヴェンは必ずしも「イギリス式」ピアノに完全に満足していたわけではなく、1796年にヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーに「ウイーン式」のピアノを贈られて以来、そしてまた1809年以降にも改良を加えたピアノを借りて(6オクターヴ)、ピアノ・コンチェルト第5番「皇帝」作品81aを生み出しました。1818年にははるばるロンドン港からウイーンまで「イギリス式」のブロードウッド製のピアノ(6オクターヴ)がベートーヴェンに献呈され、最後の3つのピアノソナタ作品109 (1820年)、作品110(1821年)、作品111 (1821/22年)という壮大なスケールのソナタを生み出すことになるのです。

ベートーヴェン最後のピアノは、コンラート・グラーフ製のもの(6オクターヴと4度)で、1823年ころから所有していたようですが、すでに彼は最後のピアノソナタを書いた後であり、作品120の「ディアベリのワルツの主題による33のヴァリエーション」(前述のブロードウッド製のピアノも同時に用いられた)や作品126の「6つのバガテル」がこのピアノから生み出されました。この作品の第一曲目、ト長調のシンプルながらも煌く音の質感で表現される深さは、タイトルの「バガテル」(つまらないものという意味)とは裏腹にベートーヴェンが「ウイーン式」のピアノを最後まで愛し続けたことが伝わってくるかのようです。