フォルテピアノ奏者 丹野めぐみ BLOG。東京芸術大学音楽学部楽理科卒業後、オランダ初めヨーロッパ各地にて研鑽を積み、同地にて活躍。現在オランダでもっとも権威ある「De Nederlandse Opera」のメンバーとして参加、また「Amsterdam Barok Opera」にて活動の場を広げるとともに、ヨーロッパを中心に、室内楽とドイツリートの分野で精力的な活動を行なっている。

June 2010Archives

9月7日テンポ・ルバート!

| | Comments(0) | Trackbacks(0)

 ふう、息つく暇もなく、明日からまた修行のたび。本当に皆様に支えられて、ここまでくることができました。道のりはとても遠く、つらく、でも音楽と皆様のご支援あって、また旅立てます。6月のコンサートのあとは、ジワジワと自分の感覚のなかで育っていって、今いいかんじで調整できています。おそらく飛行機のなかでいろいろなことを考えながら、そして12回のコンサートをやりながらまたわかってくる、音楽が身体に入ってくるようになると思います。本当にこんなチャンスをいただいて、とても私の人生の中でもスペシャルな、大切な時間でした。重ねて御礼申し上げます。

 9月7日、テンポ・ルバートが優勝してから初めて日本でコンサートをします。「凱旋コンサート」ということで、GUSTAVINOさんの温かいご支援のもと、ヨーロッパ・ツアープログラムを弾いたあとに、レセプションをホワイエで行います。もちろん、美味しい飲み物いっぱいでてきます!詳しくは随時載せていきます!横浜みなとみらい小ホール、9月7日火曜日19時より!

 とりあえず、なんとか乗り切ってきます!またお会いできる日を楽しみにルンルン精神で臨んできます!本当に本当にありがとうございます!

 第一夜のコンサート、無事終了いたしました。これも皆様の温かいご声援あってのことです。本当にありがとうございました。プログラム的にかなり内容を盛り込んで(現代曲やお話やら)、自分にプレッシャーを与えてしまいましたが、温かい雰囲気に包まれて、なんとかのりきることができました。英治さんとのリートはかなり集中することができて、自分も楽しみながら演奏することができました。

 さて、第二夜のプログラムに入れましたミューテル(1728-1788)について少し書きたいと思います。写真をみるとかなり美顔ですね!彼はドイツ人の作曲家で、その作品からはカール・フィリップ・エマーヌエル・バッハとならんで、「疾風怒涛時代」のスタイルをみることができます。知られている限りでは、彼は1771年に、出版された楽譜に初めて「フォルテピアノのための」という記載をしたそうで、その時代にはフォルテピアノが台頭してきたことを示しています。

 彼のお父さんはテレマンと交友があり、ミューテルの音楽に大きな影響を与えました。1750年には大バッハに作曲を習うためライプツィヒに赴きましたが、彼は最後の弟子としてわずか3ヶ月だけ教えを請うことができました。彼は大バッハが亡くなったときも、そのそばに付き添っていたそうです。その後大バッハの弟子に作曲を習いながら、他の作曲家に会おうと旅を重ね、ポツダムのフリードリヒ大王に仕えていたエマーヌエル・バッハに会えたことは、生涯の礎となりました。

 1753年には彼の兄弟に続いて、ラトヴィアの首都リガへ移り、ここで1756年に初めて彼の作品(28歳!)を出版しました。歴史書家のチャールズ・バーニーは彼の著作の中で、ミューテルの卓越した技術や誉め讃えました。またシューバルトも彼のチェンバロのテクニックを「その速さと的確さと軽さ」において絶賛しておりました。

 彼の作品のほとんどが生前に出版されなかったのですが、彼の鍵盤作品はやはり高く評価されていたようで、15日公演で弾く「アリオーソハ短調」もその中のひとつ、1756年に出版されました。テーマのほかに12の変奏曲がついておりますが、細かい装飾音やフレージングを考えると、チェンバロまたはクラヴィコードを想定しての作品かと思われますが、フォルテピアノ特有の響きでどのくらい彼の世界に近づけるのか、挑戦してみたいと思います。

 今日は本番のピアノで三浦さんと練習!息はもともとあっているので、すんなり音楽に入っていけます。昨日とはまた違ったアイデアが浮んだりして、面白い!
 

 今日はベートーヴェンについて!ベートーヴェンが生涯にかいたピアノ・ソナタ32曲は、「新約聖書」と呼ばれるほど、クラシック音楽の中では一際異彩を放つ名作なわけですが、その所以は、ベートーヴェンの生きた時代のスタイル、ピアノという楽器の変遷、そしてベートーヴェンが音楽になにを求めていたのか、その彼の哲学が一音一音ずっしりと読み取れることだと思います。

 ハイドン、モーツァルト時代の「シュタイン」や「ヴァルター」といった楽器の音域は現代のピアノより小さく61鍵が支流でしたが、ベートーヴェンの時代になると、ピアノの発展はより大きな変化を迎えることとなりました。19世紀の市民階級が経済力を蓄えてピアノを所有することの欲求に拍車をかけ、この産業化社会の幕開けが後のピアノ製造業にも大きな影響を与えることになったのです。この枠組みのなかで考案された技術は、常に音楽家と社会が求める音楽と連動してピアノ製造に刺激を与え、作曲者はこの自分のためにつくられた新型ピアノを前にさらに意欲がかき立てられたのでした。

 11日演奏するピアノ・ソナタハ短調は、かれの初期の作品であり、「ヴァルター」での演奏は、ベートーヴェンが意図したであろう、直接的な激しさと、「モデレーター」(膝で操作するペダルで、「押し上げる」と弦の下にフェルトがはさまり、小声で話しているかのような音量になる)で表現する非現実的な音色が交互に現れる、べートーヴェンらしい、ハ短調です。

 この作曲の後、1800年を過ぎてもなお、ピアノの未知なる可能性について常に考えていたベートーヴェンは「ピアノが楽器のなかでもっとも遅れており、ハープのような音がする」と、もっとも信頼を置いていたシュトライヒャーという製作家にもらしています。彼の向上心を煽るように、イギリスやフランスの楽器製作者からピアノが贈られたことで、ベートーヴェンは常に刺激され、彼独自の境地を32曲のピアノ・ソナタの中に見出したのです。

 今日から歌手の三浦さんとリハーサル!ああ~おもしろかった!わからないドイツ語の言い回しとかを丁寧に教えていただき、また自分が練習して思ったことなど、舌足らずの私をよく理解していただき、とても有意義な時間でした。またやっていてわかってくるってこともあるし、ピアノがうたの人の世界を先につくりあげるってこともあるのだけど、うたの人がピアノの音色を変えるっていう魔法?実際そういう箇所もあって、そういうひとつひとつの発見がうたとピアノという二つの楽器をひとつにしていくんだなと、改めて現場で感じました。

  さて、昨日の続きで、バッハについて!

 大バッハに最も溺愛されたことで知られるヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-84)は、即興演奏が得意な、才能に恵まれた音楽家でありました。大バッハが彼の教育のために「二声のインベンション」「三声のシンフォニア」等の、現代のピアノ教育でも基盤としてもちいられる教材をつくりあげたことはよく知られております。そんな恵まれた環境でありながら、父の名声に固執してしまい、不安定な人生であったそうです。11日の公演で弾きます彼の「ファンタジーホ短調」にもそんな不安定さが影響していますが、それが逆に彼の「味」となっているともいえるでしょう。器楽的な旋律と、オペラ風の書法、それがいったりきたりめまぐるしく変化していきます。1770年代に作曲されたことを考慮にいれ曲を概観すると、彼の頭にあったのはおそらくイタリアの響きとチェンバロのもたらす効果だったのではないかと思います。
 かたや彼の弟カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハ(1714-88)は、20年以上も勤めていたフリードリヒ大王の下を離れ、新天地ハンブルグという港町に自由の精神を求めました。ハンブルク期の代表作として「識者の愛好家のための曲集」が挙げられますが、その中の「ロンド変ロ長調」(6月11日)、「ファンタジー変ホ長調」(6月15日)を演奏会で取り上げます。彼の作曲はとても大胆で奇想天外、次になにが来るんだろうというワクワク感たっぷりの音楽です。大胆な転調、感情を露にした表現、急激な場面転換など、より人間個人の感情を情熱とともに表すことに重点が置かれています。フォルテピアノのメカニックや音色は、まさにエマーヌエルのこれらの作品を弾くときに絶妙な表現を可能にしてくれます。
 このように18世紀後期のドイツでは、音楽が宮廷だけのものという認識から少しずつ離れ、一般の中流市民が家庭やサロンといった私的な空間で音楽を楽しみ、また当時の啓蒙思想とあいまって音楽がそのものがその思想を伝達する媒体となったのであります。
 

 次回はベートーヴェンについて!

 

 はてさて、昨日は、すばらしい公演(スタンリー先生と室内楽のプログラム)を聴いて、モーツァルトの室内楽って、ハイドンやベートーヴェンのそれより神がかっているというか、個人的な意見では人間くささがまったくない深遠な音楽だなと。アンコールに行われたベートーヴェンを聴いてさらにそう思いました。自分もピアノ・カルテットは相当やってきたのだけど、あーこういう音楽だったかーと改めて気づいたというか、今の自分がまた取り組むことになったら全然違う気持ちで弾くことになるだろうなとか。。

 さて、11日の演奏会にむけてもうちょっと「ティータイム」を続けます。

 世界的に有名な「大バッハ」=ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)さんですが、実はそもそも「バッハ一族」は200年にわたって50人以上の音楽家を輩出した家系であります。粉屋(パン屋)(BACHは「小川」という意味のドイツ語)でツィターを奏でて(16世紀)いたご先祖様がいらして、中部ドイツのテューリンゲン地方がバッハ家代々の中心地になるわけです。

 この大バッハ、お父さんからヴァイオリンを習い、いとこのオルガンに耳をかたむける少年時代を経て、7歳あたりでラテン語の学校に入学し、家計を助けるために聖歌隊としてはたらきながら成績は優秀、そして10歳になる前に両親を失い、兄の手で育てられることになります。後にあのような音楽を生み出す原石が幼少期の辛い出来事を乗り越えて培われていったのかなと、想像することができます。この兄であるヨハン・クリストフ(1671-1721)は、バロックの巨匠パッヘルベル(「カノン」はとても有名ですね!)の弟子であり、大バッハもこの影響を受けたことは間違いありません。このお兄さんは、フローベルガー、ブクステフーデなどのバロックの大家の写譜を所蔵しており、まだ幼い大バッハはこれらをこっそり筆写したなんていう伝説もあります。またラテン語の勉強や、ルター派の神学を学んだことも将来に大輪の花を咲かせる礎となったようです。

 15歳で兄のもとを離れ、17歳で高等学校を卒業、18歳で念願の教会オルガニストとして採用され(アルンシュタットという町)音楽家として自らの人生を切り開いていきます。異例の才能であったためすでに高給取り、またとても熱い気質だったらしく聖歌隊と衝突!なんていうエピソードも。20歳で自ら、憬れのブクステフーデに会いにいき、多くのことを吸収したバッハは自分の様式を徐々に確立していきます。このころに作られた作品でもっとも有名なのは「ニ短調のトッカータとフーガ」です。(中学の音楽の授業にでてきたんではないでしょうか?)当時としてはセンセーショナルな音使いの「コラール」を書くようになったため、のちに教会と対立してしまうことになります。

  そしてこのアルンシュタットという町で最初の奥様マりーア・バルバラ(1720年に急死してしまう)に出会い、22歳で結婚。7人の子供のうち長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハとカール・フィリップ・エマーヌエルが傑出した音楽家に成長します。この二人の音楽を今回の演奏会では取り上げてどんな音楽なのか、また大バッハとはどう違うのか、聴いていただければと思います。

 この二人については後ほど。。

 

 ご無沙汰してしまいました!第一夜のコンサートのカウントダウンをしながらも、まあ、あっちへいったりこっちへいったり。いろいろな方に出会いながら、人生の妙をエンジョイしつつ、練習につかれてアロマ・マッサージを受けたり、スタンリー先生を成田へお迎えにいったり。。今日は太極拳に挑戦!(実はオランダでやったことがあるんです)やはり心なしか心が軽くなるというか、気分が晴れるというか、普段の自分の姿勢にもすぐ影響するんで、すばらしい!一人で続けてってわけにはいかないので、日本にいる間はなるべく通いたいなと。あと、北京好きなのでぜひ一度早朝の公園で地元の方に溶け込みつつゆっくりと身体を動かしてみたいものです!そのあとは中国茶!
   
 意識を現実に戻しつつ。。今度の2回の演奏会は、私がめったにやらない「ソロ」、そして大好きな「ドイツ・リート」の音楽をやってみます。私は自分のことを基本的には室内楽気質だと思っていて、人と協力しあって自分の持ち前が生かされるのではないかと、音楽を始めてから一貫した気持ちで続けています。でも今回は、自分がフォルテピアノを始めて10年が経ち、ひとつの区切りとしてチャレンジしたいなと。自分がなぜフォルテピアノに出会ったのか、またそのきっかけはこの「ドイツ・リート」というジャンルとの出会いにあります。大学にはっいてすぐの5月、巨匠エリー・アメリングが大学でマスタークラスをやっていて、それを見たときの衝撃と決意。自分は歌い手にはなれないけど、歌のそばにいる人生を選択することはできる!と思ったのです。

 そのときにふと思ったのは、やはり人間の声というものはとても繊細で、それを支えたり、補ったり、息が楽にできるように流れをもっていたりする、そういうことが、「ピアノ」だとどうしてもまずは歌との音量のバランスという点に着目しなければならず、ピアノ奏者は=「ドイツ・リート伴奏者」という肩書きがつくわけですが、本当にそうなのかな?って思ったのがこのジャンルにハマッタきっかけです。もちろん歴史の偉大な「ドイツ・リート」ピアニストというのはたくさんいて、その方たちがやってきた数々のレコーディングは本当にすばらしいです。ただ、自分がおもっている?に回答を与えてくれたのは、私の場合は「フォルテピアノでやってみる」という視点からの挑戦でした。

 普段に目にするピアノは基本的には1850以降に発明されたものです。ピアノの歴史を約300年と考えると、1700-1850年の間に生まれたピアノは、本当に時代や地域によって一台一台顔が違う作品でした。歌曲王シューベルト(1797-1828)は生粋のウィーン子で、短い生涯の間に600曲以上のリート(ドイツ語で「歌」)を書いたわけですが、その時に使われいたのは当然当時のピアノ(私達の目線で遡れば「歴史的ピアノ」または「フォルテピアノ」と呼びます)だったわけです。

 今回の演奏会で用いる楽器はプログラミング上、シューベルトよりも少し前の「ヴァルター・モデル」と呼ばれているものです。アントン・ヴァルター(1752-1826)は、当時のウィーンで最も成功したピアノ製作者のうちの一人です。モーツァルト(1756-1791)は、有名な「モーツァルトの手紙」の中で、ヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728-1792)のピアノを1777年に誉めていますが、数年後の1782もしくは1783に「ヴァルター」のピアノを購入していることがわかっており、ヴァルターのピアノが持つ柔らかい音色、音質や音量の微妙なさじ加減ができること、また現代のピアノにはついていない「モデレーター」という機能、これは「膝ペダル」(鍵盤の下にペダルが2つ操作できる機能がついている。ひとつは「ダンパー・ペダル」であり、もうひとつが「モデレーター」)を踏むと(ひざで押し上げると)弦の下にフェルトがサッと登場し、音色を柔らかく、かつ小さく変えることができます。楽器のあり方そのものが、当時のヨーロッパの美意識を現していたといっても過言ではありません。

 そのような楽器を現代の楽器製作者たちは研究し、「コピー」としてこの世に送り出しているわけです。なので「~(誰々)製作の「シュタイン・モデル」というような紹介がされているわけです。
  

 そのようなピアノととも、今回はハーグでご一緒したバス・バリトンの三浦英治さんをお迎えして、「ドイツ・リート」やります。彼の深い聴き応えのある声(癒し系)と、ヴァルター・モデルのもつ温かさ-これらがうまくからんだときに、「伴奏者」としてではなく「共演者」として、「ドイツ・リート」の世界を楽しめる自分が存在できるような気がします。